だが、フロイスによると、九州島津征伐は海陸両面から導入された巨大な軍隊にもかかわらず、秀吉が想像していたほどの大きな戦果は上がらなかったようである。
秀吉軍は肥後の八代から薩摩国境に進み、川内という大河のほとりに布陣した。
だが、そこでは降り続く雨のために幾日も戦闘は膠着状態に陥り、兵士の中からは病人が続出した。
さらには、上方からの食糧の輸送も困難になり、餓死者が連日後を絶たなかった。
しかし、そんな秀吉軍の現状を知らなかった島津はただ関白の大軍に圧倒され、先に降伏を申し出てしまった。
「もし、薩摩の国王が、あと五日間、関白の許に赴くのを送らせていたならば、関白は軍勢を撤退させ、自らは馬を馳せて帰ったであろうし、彼の面目は丸つぶれとなり、その名は信用を失墜し、敵の手であらゆる橋は破壊され、撤退に際し、少なからぬ危険に曝されたことであろう」フロイスはこの戦いをこう分析している。
秀吉はある意味イメージ戦略で勝利したのかもしれない。