真田家と六文銭17

だが、海野棟綱はこのまま引き下がっていたわけではない。
当時、海野家の家老であった深井棟広が高野山蓮華定院に宛て「上杉憲政殿へ本意の義頼み奉られ候間、急度還住致さるべき由」と書状に記していることから、海野棟綱は上州平井城の関東管領上杉憲政のもとを訪れ、領地の回復と小県への帰還を切々と訴え、協力を強く要請した。
先の『神使御頭之日記』には、この棟綱の要請を受けた関東管領上杉憲政は「兵三千騎を率いて佐久郡や小県まで兵を出した」とあることから、実際に兵を出し、海野氏の失地回復に向かったことが分かる。
だが、上杉氏にできることはそこまでであった。
同日記によると、そこでは、もう武田、村上両軍は引き上げた後で、上杉軍はそこに残っていた諏訪氏の軍と睨み合ったものの、やがて諏訪氏と和議を結び近辺を形だけ荒らして関東に帰っていったという。
上杉氏にとってみれば、海野氏へ義理を立て出兵はしたものの、そこで自分の兵の損害を覚悟してまで敵と合戦する気など初めからなかったのであろう。
また、関東管領上杉氏の出兵に敵は簡単に退くとでも思っていたか。
その後、上杉氏が海野氏の失地回復のために小県に出兵した形跡はない。
海野氏の小県帰還は事実上絶望的になってしまった。
これ以降、この合戦に敗れ、故国を捨てて上杉氏を頼っていった海野家の当主棟綱は歴史上現れてこない。
海野棟綱は歴史上からその消息をぱったりと絶ってしまうのである。

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