真田家と六文銭18

このとき、すでに当主棟綱の嫡男幸義は村上義清との戦に敗れ戦死していた。
このことから、海野氏の嫡流が滅亡してしまった可能性が考えられる。
そうでなくとも、海野氏嫡流は完全に没落してしまったのであろう。
このとき、真田氏は幸隆の時代を迎えていた。
真田家の家臣であった加沢平左衛門が著したとされる『加沢記』によると、真田幸隆はこの合戦で海野氏とともに村上軍と戦い、海野一族の祢津氏とともに棟綱から拝領したという大太刀を真っ向から振りかざして村上義清を目掛けその本陣にまで押し寄せたという。
だが、戦い敗れ、海野方は千余騎が討たれ、兵の大半は傷を負った。
『滋野世紀』『真武内伝』によれば、幸隆も真田の地を捨てて上州の箕輪(群馬県箕郷町)に長野業正(ながのなりまさ)を頼って逃げていったという。
箕輪城主長野業正は関東管領上杉氏の重臣であったことから、幸隆も海野氏同様上杉氏の力を借りて本領回復を期すつもりであったのであろう。
このとき真田幸隆二十九歳であったという。
この後、幸隆が亡命先の上州で何をしていたのかは確かな史料からは何も分らない。
ただ、後の史料から分ることは幸隆がその八年後には武田信玄に仕えているという事実である。
関東への亡命から武田氏に仕えるまでのその数年間の幸隆の足取りは確かな史料からはまったく不明である。

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