真田家と六文銭22

今も残る真田家系図には、微妙にその流れが二つの系統からなっていることが分かる。
「松代藩真田家系図」や「滋野世紀系系図」などその一つの系統は、真田幸隆を村上氏によって信州小県から追放され上州に逃げた海野家の当主棟綱の子としているか、もしくは村上氏との戦いに敗れ戦死した棟綱の嫡子幸義の子としている。
これは幸隆がもともと海野氏嫡流を継ぐべき人物であることを表しているともいえる。
ただ、そこでは、もともと海野氏の嫡流であった幸隆が海野の地から真田郷に移り住んで初めて真田氏を名乗ったとしている。
このことは松代藩士竹内軌定が真田家の歴史を綴った『真武内伝』にも記されている。
しかし、この説は真田町に残る真田氏に関する遺跡や『大塔物語』などの記述からその信憑性は疑わしい。
真田氏というのはもともと真田郷を本拠としていた小豪族であった可能性が高いのである。
幸隆が海野棟綱の子であるという説は松代藩真田家八代目の幸貫が編纂した『真田家御事績考』も採用している。
この『真田家御事績考』は自らの先祖の事績が滅失したり、その伝承に誤りが多いことを遺憾に思った幸貫が家臣に命じて、古文書、記録、その他の資料を集めてわざわざ編纂したものといわれている。
そこでは幸隆は永正十年(一五一三)の誕生であり父海野棟綱、母某氏とある。

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