真田家と六文銭20

幸隆は様々な情勢分析から上杉氏の力の限界を知り、上杉氏にはもう真田氏や海野氏を再興させるだけの力にはないと判断したに違いない。
『加沢記』には「関東管領上杉憲政という人物は信州で聞いていたよりなお愚かな大将である。」という記述があるが、あるいはそれが幸隆の実感であったろう。
だが、幸隆が上州に亡命して間、信濃では、隣国甲斐(山梨県)の若き国主武田信玄が疾風怒濤の勢いで信濃の侵略を始めていた
武田信玄は当時二十一歳の若武者であった。
信玄は父信虎を駿河(静岡県)に追放して武田家の家督を継ぐと諏訪の諏訪頼重をも滅ぼして、信濃侵略もに意欲を燃やしていた。両者ははからずも、村上義清と結託して海野氏を攻め滅ぼした人物であり、幸隆にとっては憎むべき敵であった。
信玄はそれを見事蹴散らして信濃侵略を進めようとしていたのである。
当時、甲斐は打ち続く天変地異や飢饉などで、民の力は大きく疲弊していた。
信玄はその活路を信濃侵略に見出そうと、それを着々と実行に移そうとしていたのである。
幸隆はこの若き国主武田信玄の活躍に注目していた。
信玄には上杉憲政と違い若さゆえの旭日の昇るような勢いがあった。
また、信玄の側近の重臣たちも、板垣信方、甘利虎康、馬場信春、山形昌景など諸国に聞こえたつわもの揃いばかりであった。
「これからは必ず信玄の時代が来る」幸隆はそう確信したことであろう。

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