真田家と六文銭25

これらの資料はどれも幸隆が海野から真田の地にきて初めて真田を名乗ったとしているが、幸隆は海野棟綱の嫡男ではなく次男とされている。
そこから、海野家を出て他家、この場合は真田家を継ぐことは大いに考えられるのだが、どれも幸隆が初めて真田を名乗ったとしている点がどうも解せない。
あるいはここに何らかの隠れた真実があるのかもしれない。
あえて推論を加えれば、海野氏からの真田氏の確かな流れは幸隆によって始まった。
幸隆以前の真田氏と幸隆が継いだ真田氏との間には流れの上で何らかの断絶があったとも考えられる。
小林計一郎氏は幸隆が後に真田郷の領地を回復した後も「日向畑遺跡」の真田家祖先の墓を復活しなかったのは海野嫡流を僭称したため本当の墓は不要になったからだとしている(『真田幸村のすべて』)。
あるいはそれは真田家の代々の祖先と幸隆との間には流れの上で何らかの断絶があったことが因となっているとも考えられる。
そのことが、幸隆以前の真田氏を不透明にさせている原因となっているのではないか。
真田氏は古くから海野一族からの流れを汲む氏族だったのかもしれないが、幸隆が名乗った真田氏は正真正銘海野氏の嫡流の流れを汲むものであった、そういうことなのであろうか。

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