ブログ 佐和山城下「聞書」の謎22 しかし、ありとあらゆる神社・仏閣が破壊されたのかというとそうではなく、中には八幡宮などのように昔から国内外に聞こえた由緒ある神社は破壊を免れている。また、その他にも成就院のように名前や宗旨を変えられて存続したものもあった。これら「聞書」の記... 2021.02.10 ブログ
ブログ 佐和山城下「聞書」の謎21 『淡海落穂集』にはこの神社仏閣の破壊にともなって発生したある事件のことが描写されている。少し長い引用になるが、そこには「慶長年間に彦根山に城が出来たとき、彦根寺、門甲寺を引いた時、残った社寺欽明殿養花院を他所へ立ち退かせると奉行が言い渡した... 2021.02.08 ブログ
ブログ 佐和山城下「聞書」の謎20 『彦藩並近御往古聞書』には、「井伊直政公、直孝公は神社などは木の橋のように思っており、ものの数にも数えないで一つ一つ潰していった。」とあり、民衆はその為政者の意志をちゃんと見抜いていた。さらに、同聞書には、「役人たちの仰せつけだというので、... 2021.02.06 ブログ
ブログ 佐和山城下「聞書」の謎19 まさに、神社・仏閣の破壊は家康の上意、命令によるものであったというわけだが、『当城下近辺絵図附札写全』という聞書には、「井伊直政公、直勝公の時代に彦根を開くとき、佐和山城より彦根辺りまで数多の神社仏閣を潰し、田畑にするようとの命令があった。... 2021.02.04 ブログ
ブログ 佐和山城下「聞書」の謎18 佐和山に城を築くということは、そこが単に要害の地であるというだけでなく、城がその山のもつ霊力というか宗教的な力で守られるという要素もあったのではなかろうか。さらには、佐和山の西には強力な霊山である彦根山が存在している。そう考えると、佐和山城... 2021.02.02 ブログ
ブログ 佐和山城下「聞書」の謎17 『淡海落穂集』という聞書には、「曾秋坊清涼院、金剛坊宗徳寺、完徳坊円寿院、定家坊、観音坊以上七ヶ寺は佐和山山中よりこの辺りにあった霊場である。どれも、昔から天台宗でこの寺院を社宮士といった」とある。さらには、佐和山と湖との間には後に彦根城が... 2021.01.31 ブログ
ブログ 佐和山城下「聞書」の謎16 近年、井伊家所蔵の文書から、三枚の佐和山城絵図が発見された。いったい、なぜ、井伊家が自らが破壊した佐和山城の絵図を所蔵していたのか、その理由はここでは判然としないが、この三枚の絵図については彦根城博物館学芸員の谷口徹氏が『彦根城博物館研究紀... 2021.01.29 ブログ
ブログ 佐和山城下「聞書」の謎15 こうして、石田三成の居城佐和山城は井伊氏の手で地上から抹殺されていったが、それではなぜ井伊氏は次なる城の候補地を彦根山にしたのであろうか。彦根山は当時有名な霊場として知られており、そこには、門甲寺、彦根寺、石上寺などの寺院が建てられていた。... 2021.01.26 ブログ
ブログ 佐和山城下「聞書」の謎14 また、彦根城の建物には、大津城や長浜城からの移築の伝承はあるが、佐和山城からの移築に関しては全く伝承がない。これも考えてみれば、不思議なことである。佐和山城は彦根城に一番近く、さらには彦根城が完成するまでは井伊氏は佐和山城にいたわけであるか... 2021.01.24 ブログ
ブログ 佐和山城下「聞書」の謎13 しかし、佐和山城跡では、城の建物に葺かれていたと思われる瓦の破片が本丸跡や西の丸跡といった山頂部分でしか発見されていないことから、瓦をもった建物は山頂部分だけに限られ、その重量を支える石垣も山頂部分にしか築かれなかったとする見方もあり(中井... 2021.01.22 ブログ