佐和山城下「聞書」の謎20

『彦藩並近御往古聞書』には、「井伊直政公、直孝公は神社などは木の橋のように思っており、ものの数にも数えないで一つ一つ潰していった。」とあり、民衆はその為政者の意志をちゃんと見抜いていた。
さらに、同聞書には、「役人たちの仰せつけだというので、仏具、仏像、石地蔵まで一つ一つ野に捨てた」とか「近江山中、郷辺りにある兵火に焼けないで残っていた古寺の営坊、大門、石類などを役人が人夫に言いつけて一々これを取り寄せ使った。このことに対して百姓たちがとやかく云えば、奉行人、有無を言わさずひどくあしらって、事によっては引っ張っていって脅した」と生々しい寺院破壊の現場の姿が描写されている。
さらに、『彦藩並近御往古聞書』は続ける。
「里根村と公藪村の間に御鎮座している青面金剛の堂は、彦根城下ができたとき退転に及んだ。御神体も共に泥土の中に捨てられていたのを誰人かが守り奉って隠しおいた。」
「彦根城下が出来るとき、付け人といって家康公より三河衆、甲斐衆侍というのが家中より役を言い渡されたてやってきた。彼らは、古沢辺りにおいて大分社坊を壊し、古跡をつぶし、房前公御作の石の仁王は当所の霊仏だといって諸方より信仰された仏であるが、これを無造作に打ち潰して淵堀へ埋めた」
「彦根辺りから安清の辺りにも名所古跡社堂の類は大部分が破却された」
「直政公より直勝公の時代。直孝が彦根城普請のとき、所々、村を潰して旧の畑を取り上げた。また、よろしき所は古跡といえどもお構いなく、社堂に至るまで村に関係なく破却され田地となった」となりふり構わない井伊家による神社・仏閣の破壊の様子を伝えている。 

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