佐和山城下「聞書」の謎17

『淡海落穂集』という聞書には、「曾秋坊清涼院、金剛坊宗徳寺、完徳坊円寿院、定家坊、観音坊以上七ヶ寺は佐和山山中よりこの辺りにあった霊場である。どれも、昔から天台宗でこの寺院を社宮士といった」とある。
さらには、佐和山と湖との間には後に彦根城が築かれることになる彦根山があり、そこには門甲寺、彦根寺、石上寺などがあり、ここは当時は都にまで聞こえた有名な霊山であった。
これらのことから分るように、佐和山城はそれら多くの寺院・仏閣と共存していた。
もちろん、それは石田三成自身が京都大徳寺に三玄院を建立したり、佐和山城内に瑞嶽寺を建てるなど信仰の厚い人物であったことも関係していようが、はたして、それだけの理由であったのだろうか。
私は佐和山の山壁を大手の方面から何度も直登したことがあるが、その都度いくつもの大きな岩に出会っている。
佐和山城絵図にも、エボシ岩、七ッ岩などという大岩が描かれているが、佐和山はもともとこれら大きな岩がむき出しになった地形というか山容であったのだろう。
そんな大岩がむき出しになった山容、そして、佐和山に修験者の寺があったことから考えて、もともと、佐和山自身が深山幽谷の地として修験者らの修行・信仰の場となっていた可能性も考えられる。
そのため、大勝寺や宗徳寺、さらには佐和山の谷にいくつもの坊が建てられていた。
佐和山は昔から宗教上の聖地ともいうべき山であったのではなかろうか。

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