佐和山城下「聞書」の謎22

しかし、ありとあらゆる神社・仏閣が破壊されたのかというとそうではなく、中には八幡宮などのように昔から国内外に聞こえた由緒ある神社は破壊を免れている。
また、その他にも成就院のように名前や宗旨を変えられて存続したものもあった。
これら「聞書」の記述は、確かに伝承であり、事実関係には誇張もあるかもしれないが、そこには、先祖代々信奉してきた神社や寺院が、新たにこの地に入ってきた井伊氏の手で、目の前で壊されるのを見た領民たちの無念さ、嘆きや怒りの声が赤裸々に綴られている。
こうして、井伊氏は家康の命を前面に押し出して、佐和山及びその周辺の三成時代に存続した神社・仏閣を大量に破壊していったのである。
それは、一つには、三成時代の痕跡を跡形もなく抹殺してしまおうとの意志であり、さらには、佐和山を存続せしめていた宗教的なパワー、バリアを崩壊させ、佐和山の聖性を剥ぎ取り、佐和山をただの山に戻すための強硬な措置であったとも考えられる。
しかし、井伊氏が潰したのは、神社・仏閣だけではなかった。
井伊氏は彦根城の城下町を造成するために、佐和山城下を抹殺し、その近辺にあった村をも次々と潰していったのである。
聞書には「佐和山の大手の方、裏手の方は石田家の城下町であったので、一々取り潰して、田地としてしまった。また、その辺りの名所旧跡と云う所もあったがそこも山林荒地に至るまで一々みんな田地となった」
「直政公、直勝公の時代、彦根を開くとき、彦根村という三村を取り潰し、また佐和山城からこの辺りにあった神社、仏閣多数破却を言い渡され、一々田畑にされ」たと石田時代の佐和山城の城下町がことごとく潰されて、その跡が田畑にされていったこと、彦根にあった三つの村が潰されたことなどが記されている。

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