佐和山城下「聞書」の謎23

さらに、『当城下近辺絵図附札写全』には「城下の場所ご入用につき、彦根村、安養寺村、彦根中村、里根村をお潰しになり、このとき、村は大騒動になり、百姓たちは立腹してお役人と口論になった」
「直勝公の時代、彦根を開くとき、右の村(里根村)を一々潰して城下にした。そのとき、百姓たちが立腹して争論をし、役人たちが難渋したという。」
「長曽根村の田畑も八分は取り上げられ、百姓たちは取り替えについて役人たちと言い合ったが、役人たちはどれも聞く耳をもたず、挙句の果ては引っ張っていって理非を言わさず威圧して押さえつけたりするので、百姓たちは神社をいだいて他領へ行く者が多かった。」とある。
このように、村を奪われた百姓たちは役人に強く抗議したが、役人は聞く耳などまるで持たなかった。
さらに同「聞書」には長曽根村を潰された百姓たちが抗議すると「戸塚氏・川野氏等の役人、生首を竹の先に刺し貫いて持参し、郷民たちに見せ懸け、時には打ち捨てにし、又は縄を懸け追放せられたので、郷民たちは恐れ入り、あるいは他所に立ち退き、または他村の飛び入りに行った」とあり、井伊家の役人たちが反対する領民に竹に突き刺した生首を見せたり、刀で斬り捨てたり、縄をかけて追放したりとかなり強硬な態度で臨んだことがわかる。
そして、村を潰された領民たちは「立腹して他所へ立ち退き、あるいは町人になって他の村へ飛び入った。」(『彦藩並近御往古聞書』)と長年住み慣れた村を捨てて慣れない他村に行くか、百姓をやめて町人になるかしかなかった。

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