佐和山城下「聞書」の謎16

近年、井伊家所蔵の文書から、三枚の佐和山城絵図が発見された。
いったい、なぜ、井伊家が自らが破壊した佐和山城の絵図を所蔵していたのか、その理由はここでは判然としないが、この三枚の絵図については彦根城博物館学芸員の谷口徹氏が『彦根城博物館研究紀要』の中で紹介されている。
私は彦根市立図書館で『彦根城博物館研究紀要』を見て、その中の絵図を見る機会に恵まれたのであるが、その中の一枚に不思議な感想をもった。
というのは、佐和山という山には神社・仏閣がなぜかとても多いのである。
かつて、佐和山城内には法花丸という一郭があって、そこにはかつて法華宗の寺があったということは漠然と知ってはいた。
だが、この絵図を見る限り、佐和山には城の大手門を入るとすぐ南に宮があったことをはじめ、山の北側にも、八幡宮、山神権現、大正寺、仁王堂、ケイセン坊、チンクハン坊、ユンナン坊、キンハン坊という寺の坊があったようだ。
また、城の裏手、湖側にも豊国神社、宗安寺、三成が母の菩提を弔うために建てた瑞嶽寺などがあったようである。
『彦藩並近御往古聞書』によると、佐和山には大勝寺という天台宗の寺があり、この寺の境中には、その末寺として図南坊、慶林坊、猿蔵坊、宗徳寺、清涼寺、月峯庵、山入庵があり、このうち、宗徳寺は天台宗の山伏の寺であったという。
これらは、大手ではなく搦め手、つまり城の裏手の湖側にあった寺院であったようである。
まさに、佐和山はただの城山ではなく、こうした寺院・仏閣と共生した聖なる山であったことがわかる。

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