佐和山城下「聞書」の謎24

しかし、井伊家の破壊は旧佐和山城下だけではなく、領地外にまで及んだ。
『当城下近辺絵図附札写全』には「御領分はいうに及ばず、南は八幡辺りまでもお役人が行って、荒地を潰した。」とあり、井伊家は家康の意向をたてに領地外にまで強硬な態度で臨んだことが分る。
こうして、井伊家は彦根城下町建設に伴い、石田三成の佐和山城下を消滅させ、それに関連する村々をも潰していったのである。
さらに井伊家は、石田家時代に行われていた神事・祭礼までも禁止し、石田家時代の書物・文書はもとより農地の台帳まで取り上げ破棄した。
『近江彦根古代地名記』には「郷や町にこれまでの伝来していた書物、農地の台帳の類までお取り上げになり、その外に、これまで例(霊)格としてあった神事、祭礼、仏事、修法、談義、説法、ことごとくご停止になった。」とあり、『彦根古絵図註』にも「これまで郷中に所持してきた村の古い書物や農地台帳の類までも残らずお取り上げになって、昔から行ってきた神事、祭礼、仏事にいたるまで、書き付けて差し上げるように仰せつけられ、その書付差し上げご覧の上、神事、祭礼、一つ一つを停止するよう仰せつけられた。」と記されている。

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