佐和山城下「聞書」の謎21

『淡海落穂集』にはこの神社仏閣の破壊にともなって発生したある事件のことが描写されている。
少し長い引用になるが、そこには「慶長年間に彦根山に城が出来たとき、彦根寺、門甲寺を引いた時、残った社寺欽明殿養花院を他所へ立ち退かせると奉行が言い渡したとき、彦根浜村の作印庄作、了玄という百姓が、昔からの神仏であるから社堂に霊あることを言い立て、替地を止めるよう奉行と大論になった。それならと宮一社と寺々の本尊二体、坊主三人を残らず船に乗せて、多景島際で沈みかけたので、残る百姓たちは口を閉じ恐れ、物も言うものもなく、地取がされたという。」と記されている。
ここでは、神社仏閣の破壊に反対して声を上げた領民や僧たちが、役人たちに船に乗せられ、仏像もろとも琵琶湖に沈められそうになったというのである。
このように、井伊家は寺社の破壊に反対する領民たちを有無を言わさず力で屈服させていった。
これら「聞書」に残された記述は、今まで先祖代々慣れ親しんできた神社・仏閣を目の前で壊された領民たちの新たな支配者への精一杯の反抗であり怒りの声の反映であったろう。
こうして、彦根城下の建設に伴って三成時代に存在した寺社はことごとく消滅させられていった。

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