佐和山城下「聞書」の謎15

こうして、石田三成の居城佐和山城は井伊氏の手で地上から抹殺されていったが、それではなぜ井伊氏は次なる城の候補地を彦根山にしたのであろうか。
彦根山は当時有名な霊場として知られており、そこには、門甲寺、彦根寺、石上寺などの寺院が建てられていた。
これらの寺院、特に彦根寺は遠く平安時代から京にまで知られた霊所で、京都から公家貴族が参拝にくるほどの有名な霊場であったという。
この彦根山に城を築くには、それらの寺院を壊すか、移転せねばならず、必要以上の手間がかかったこというまでもない。
また、それは、領民たちはもちろん、京の貴族をはじめたくさんの人々から長年の歴史をもつ信仰の霊場をも奪うことになり、民の対策としも決して有効とはいえない。
井伊氏がそこまでして彦根山を選んだ理由は何だったのであろうか。
家康自身は彦根山を「要害の地」(『東照宮御実紀』)と言ったというが、そこには当然、軍事的な条件が優先されたことはいうまでもない。
石田三成の佐和山城は城の正面である大手が中仙道に面し、搦手(裏)が湖に面するという立地であったが、彦根山は東西北が内湖に面するため、南側に堀を掘るだけでその防御は万全になる。
さらに、湖に近い分だけ、湖上交通の便もよく、水利的にも佐和山よりは勝れているといえる。
さらに、佐和山と異なり、山麓には広い平地が続き、城下町を営む上でも格好の条件を備えている。
このような様々な理由から、軍事、交通、さらには城下町の経営を考慮して彦根山に城が築かれることになったものと考えられる。 
しかし、はたして、それだけの理由で彦根山が城地に選ばれたのであろうか。

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