佐和山城下「聞書」の謎18

佐和山に城を築くということは、そこが単に要害の地であるというだけでなく、城がその山のもつ霊力というか宗教的な力で守られるという要素もあったのではなかろうか。
さらには、佐和山の西には強力な霊山である彦根山が存在している。そう考えると、佐和山城は佐和山自身の霊力と周囲にある彦根山などの宗教的なバリアに厳重に守られて存在していたことになろう。
井伊氏や徳川家は、佐和山城を破壊するに当たっては、それらの宗教的バリアをも根こそぎ破壊し、佐和山のもつ聖性を剥ぎ取る必要があったのではなかろうか。
徳川家、井伊家にとっての佐和山の破城、三成の抹殺という事業はそこまで徹底されなければならなかった。
その上で、あらためて佐和山より霊力、聖性において勝る平安時代以来の霊山彦根山に城を築く必要があったのではなかろうか。
つまり守護神の入れ替えが行われたともいえる。
私が、そのように、考えるのには、さらにもう一つ大きな理由がある。
それは、「聞書」に記されている、井伊家による佐和山城石田時代に存在した寺院・仏閣の大量破壊である。
これについては、いろいろな「聞書」にも記されていることから、当時、領民が実際に見聞きしたことを伝承という形で伝えたものであろう。
『近江彦根古代地名記』という聞書によれば、「家康公より、直政公へ上意として、佐和山辺りからその外の領分中、南の八幡辺りまでの内、氏子のない神社、旦那のない寺院は一々破却仰せつけられ、お役人が廻って取り潰した」とあり、家康が井伊直政に佐和山周辺の氏子のない神社、旦那のない寺院は一つ一つ破却するように言い渡したことが分かる。

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