関ケ原前夜「慶長記」を読む15 沼田騒動

犬伏を後にした真田昌幸は、次男の信繁、春原若狭、佐藤軍兵衛などを連れて沼田へ向かった。
沼田は今は嫡男信幸の領する地であるが、かつては昌幸が徳川、上杉と主君を変えながらも守り通した要衝の地であり、昌幸との関係は深かった。
利根川河畔に建つ沼田城には五層の天守がそびえていたという。
昌幸が沼田に着くと、それを知った百姓ちたちが急ぎ沼田の城へ行き、「大殿様がやがて参られます」と言ってきた。
その報告は城を守っていた信幸の妻(本多忠勝娘)にすぐに伝えられたが、妻は大きな不審を抱いた。
「夫の伊豆守信幸は今東方にあり、家康様ももうすぐ下野に到着されると聞いている。なのに、安房守様が今ここにおられるのはおかしい」
信幸の妻は、そこに大きな不審を抱いて、留守を守っていた家臣たちに、大手門に近づけてはならぬ、安房守の家臣たちが何を言ってきても城口へも寄せてはならぬと厳命したのであった。
昌幸一行は仕方なく沼田城下の正覚寺という寺で休息を取ることになった。
するとそこに「石庵」という人物がやってきて「伊豆守様はどうしておられる」と聞いたので信繁は「伊豆守は浮木に乗って今は風を待っている」と答えると、石庵は事情を察したのか座を退いた。
しばらく休憩した後、昌幸一行は沼田を後にしたが、沼田では領主の伊豆守の行方が分からないということで騒動になっていた。
信繁はこれに腹を立て、沼田の町に火をかけ、通り過ぎましょうと昌幸に言うと、この時に馬鹿なことを言うなとたしなめられた。
それでも腹の虫が収まらない信繁は上田に向かう途中鳥居峠近くの大篠という町に火をつけ、その明かりで峠を越した。
ただ、沼田の百姓たちは上田に向かう旧主昌幸たちに馬を揃えたり、食糧を提供したりして助けてくれたという。

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