関ケ原前夜「慶長記」を読む14 真田家の判断

真田昌幸の嫡男信幸は家康の重臣本多忠勝の娘を嫁にし、これまで家康配下の武将として仕えてきていた。
そんな背景から、ここにおいて、家康に付くのは当然のように思えた。
しかし、信幸は犬伏で父昌幸、実弟信繁と真田家の今後の行き方を話し合う前にすでに井伊直政を通じて家康に付くことを表明していた。
つまり、犬伏での話し合いで信幸が家康に付くことが決められたわけではなかった。
犬伏での三者の会談は、信幸が家康に付くことが確認されたにすぎなかったのである。
ただ、信幸は無条件に家康に付いたわけではない。
家康に付くにあたって、信幸は直政に条件を提示し、それを家康が飲めば家康に従うとの交渉をもちかけていたのである。
それでは、その条件とは何であったのか?
家康はその後、信幸に自らの現在の所領はもとより、父昌幸の所領もすべて与えるという書状を送っているところから、あるいはそれが条件であった可能性が高い。
つまり、ここで真田家がどちらに転んでも家は安泰、領地は保証されるということになったのである。
さらに、三成方が勝てば、昌幸には甲斐・信濃の領地も与えられる。
ここにおいて、真田家は安全な牌を手にすることが出来た。
そう考えれば、信幸の交渉は結果的に絶妙だったことになる。
信幸はこの条件の提示については単独の判断であったのであろうか。
その背後に父昌幸の意志があったとは考えられないであろうか。
昌幸は、我々が考える以上の知恵者であった。

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