関ケ原前夜「慶長記」を読む13

関ケ原合戦直前の慶長五年四月、豊後臼杵にオランダ船が漂着し、その乗組員であるウイリアム・アダムスを家康が引見したことは前回述べた。
家康はこのとき豊臣秀頼を擁して大坂城西の丸におり、秀頼の代行として天下の政務をとっていた。
オランダ船「リーフデ号」漂着については当時長崎奉行であった寺沢志摩守広高から家康に伝えられた。
そのとき、寺沢は家康に船の積荷の目録を提出している。
それを見た家康は直ちに船の代表者を大坂に連れてくるよう命じた。
だが、船長は歩行もままならず、代わりにウイリアム・アダムスが家康に会うことになった。
同時に家康はオランダ船「リーフデ号」を豊後の臼杵から大坂堺に回航させた。
家康がアダムスに会ったのは実に上杉討伐に出発する40日前であった。
家康は通訳を介してアダムスと話をしたが、それは一日中、夜まで及んだという。
アダムスは会見が終わると大坂城の牢に入れられたが、ひどい扱いは受けなかったようである。
家康は上杉征伐で大坂城を出るまでの44日間にアダムスに三回会って話を聞いている。
また、家康は堺にやってきた「リーフデ号」を見物し、そこにあった大量の西洋の具足や鉄砲を自分の目で見ている。
家康は「リーフデ号」をさらに堺から関東の浦賀に回航させた。
家康は上杉征伐にこれらの武器を使用するつもりであったのか。
興味深いのは、アダムスも家康を追って江戸に向かっていることである。
これは当然家康の意向であろう。
家康は江戸でもアダムスから西洋の事情について話を聞いている。
家康は関ヶ原の合戦の先に世界を見ていた。
そこには、家康の天下構想があったというべきであろう。
西軍、東軍の大名たちが戦で領地を広げることだけに汲々としていたこのとき、家康は世界に思いを巡らしていた。
そう考えると、家康の底知れぬ強さはこの志の高さにあったのかもしれない。

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