関ケ原合戦前夜「慶長記」を読む12

関ケ原直前の慶長五年四月、オランダ船が豊後に来着した。
船の名前は「リーフデ号」。
そこには、後に三浦按針と名乗ることになるウイリアム・アダムスが乗っていた。
家康は船と乗組員を関東に移し、ウイリアム・アダムスから来航の目的などを聞き出した。
この行為自体をどこまで豊臣家が把握していたかは分からないが、家康はこのときすでにこれからの日本の有り様を考えていたことが分かる。
朝鮮をはじめとする東アジア諸国との関係改善、ヨーロッパ諸国との南蛮貿易をどう進めていくか、その前提となる外国船の乗り入れをどうするか、銀産出技術のさらなる獲得、何より朝鮮出兵で荒廃した日本国内の物資不足の解消や農村の荒廃をどう立て直すか。
課題はいくらでもあった。
日本の国力が衰えれば、今やアジア最大の銀産出国である日本はヨーロッパ諸国の餌食になり、分割される可能性すらある。
それを防ぐには、大名たちを従え、日本を強力なリーダーシップで統一しなければならない。
それが出来るのは今や自分家康しかいないのだ。
そのためには、何としても当面の戦に勝たねばならない。
旧豊臣政権との合戦は日本を新たに一つにまとめるためには避けられないのだ。
関ケ原前夜の家康の心情には、そんな思いがあったことだろう。

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