関ケ原前夜「慶長記」を読む10

六月十八日、家康は夜にもかかわらず、石部を発った。
家康の行動はすばやかった。
「こうじふくろ」という所に本多忠勝が留まり、人は通すが馬上の武士は止めて警戒した。
服部半蔵は鉄砲頭として七名を率い、鉄砲の火縄に火をつけ、本多忠勝は騎馬武者に下知して水口の河原に押し出させ、「えいとうとう」と声をそろえて一度に川を押し渡り、水口の町を駆け通っていった。
こうして、家康は奉行長束正家の城下を最大の警戒をしながら、夜半通り過ぎて行ったのであった。

六月二十日、四日市に着いた家康はここから船に乗って移動したが、供の者は陸路を進んだ。
二十一日吉田、二十三日には駿府に到着し、ここで中村一氏の病気を見舞った。
二十五日小田原、そして晦日、江戸城西の丸に到着した。
七月一日より家康は江戸に滞在し、諸大名も続々と下ってきた。
七月十九日には、上杉征伐の為家康の嫡子秀忠が宇都宮へ出発した。
この日、大坂の奉行増田長盛から書状が届いた。
美濃垂井で石田三成と大谷吉継が謀議して謀反を企てているというのである。
家康はその書状の写しを作らせ、先発した秀忠のもとに届けるよう指示した。
石田三成、大谷吉継の謀反はこの時点では「雑説」つまり噂の段階であったが、家康はそこに続く何か大きなものを感じていたのかもしれない。

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