関ケ原前夜「慶長記」を読む11

慶長五年六月二十日、大坂にいた生駒親正、蜂須賀至鎮、滝川雄利らの大名、前田玄以、長束正家らの奉行から石田三成・大谷刑部が兵を挙げたとの噂を告げる書状が次々と江戸の家康のもとに届けられた。
しかし、中には噂は収まったとの内容もあり、確かな情報はいまだつかめないでいた。
これが噂である以上、家康は先に進むしかなかった。
それでも、家康はこれらの書状を写させ、秀忠のもとに送り届けた。
江戸から宇都宮までの連絡を密にするため家康は一里ごとに飛脚を置いた。

二十一日、家康はついに江戸を発ち、岩槻まで進んだ。
この日はどこからも書状は来なかったが、石田らは関ヶ原に人数を入れ、伊勢の織田常真も敵になったとの話が伝わってきた。

二十二日、家康は下総古河に進んだ。
するとそこに、足利の小林十郎左衛門から、本日午時、真田安房守昌幸が佐野の先の犬伏というところから信州に引き返したとの情報が寄せられた。
次男の真田源次郎信繁が一緒だという。
真田のもとにはすでに石田三成からの密書が届いており、真田父子は犬伏で話し合い、長男信幸は家康方に、父と次男は三成方に付くことを決めた上の行為であった。
しかし、真田父子が袂を分けたのは犬伏での話し合いの結果ではなかった。
実は長男の信幸はそれ以前にすでに井伊直政を通じて家康に付くことを表明していたのであった。
それは、信幸が家康の重臣本多忠勝の娘を妻にしていたという理由だけではなく、別の理由があったのである。

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