関ケ原前夜「慶長記」を読む23 揺れ動く家康

「慶長記」の九月十日の条には「十日、熱田、此の日、西の海辺四五ヶ所焼く。是は敵方九鬼大隅守(嘉隆)焼き候由、岡崎より池鯉鮒へ行くに煙見ゆる。熱田浜辺より五、六町程先に、大船一艘、地は紫に白桐の頭の幕張りたり。九鬼大隅守船之由。先へ遣わされ候御馬印持つも、さんたか橋にて御目見えいたし候。」とある。
熱田から見える西の海は石田方九鬼水軍の手により焼かれ、いよいよ合戦は現実のものになってきた。
主戦場付近の海の制海権はすでに石田方の手に落ちようとしていた。

九月十一日の条には「十一日、清州。十二日、御逗留。夜に入り、藤堂和泉守来なさる。夜半に帰られる。少々風邪をひかせられ候。薬御服用。御快気。」とある。
九月十一日、つまり関ヶ原合戦の四日前、清須に到着したばかりの家康を再び藤堂高虎が訪ね、二人は夜半まで会談を行った。
ここで何が話し合われたのか。
家康は少々風邪気味であったようだが、薬を服用して、体調を整えた。
なお、他の記録によれば、この二人の会談には井伊直政も加わっていたことがわかっている。
家康はこの清州の城で秀忠本軍三万五千を待つつもりであると言った。
だが、福島正則らの動向をまじかに見てきた直政はもうこれ以上の遅れは無理だと自身の見解を述べた。
目と鼻の先の清州まで来た家康がそこから動かないとなれば、彼らの家康への不審は増し、家康抜きで単独行動に出る可能性もある。
それだけは何としても避けなければならない。
だが、徳川本軍三万五千を率いた秀忠軍が来なければ、家康の軍は旗本部隊しかいない。
もし、石田方と決戦に及んだ場合、家康は駒となる自軍の兵を持っていないのである。
主力は豊臣大名に頼らざるを得ない。
その不安は大きかった。
直政は家康の不安を察した上で必死に家康を説得した。
家康は熟慮した上で、清州を出て、彼らと合流することを決めた。

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