関ケ原前夜「慶長記」を読む2 4 家康、美濃赤坂に到着。戦況は混沌。

「清洲より諸人武具にて岐阜へ、中納言(織田秀信)家老百々越前守家へ着御。岐阜より長良へ御かかりながらの渡りを越えさせられ候。大垣に備前中納言(宇喜多秀家)・小西摂津守(行長)・石田治部少輔・福原右馬之助その外籠城故、道を御廻り候。」
いよいよ尾張清洲を後にして家康は長良川を渡り、無事に岐阜へ入った。
そのころ、美濃大垣城には石田三成、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘ら主力部隊が入り、美濃赤坂岡山の家康軍と対峙していた。
合戦二日前のこの時点では関ヶ原での戦はまだ想定されてはいなかった。
家康は大垣の敵主力軍と関ヶ原の入り口南宮山の毛利軍を前に何を考えていたのか。
家康は、大垣城の石田方に覚られないよう旗印を伏せ、ゆっくりと迂回するように岡山本陣へ兵を進めていった。

「赤坂丸山に御陣、大垣の方へ御馬印扇御紋のはた七本白地もの折懸二十本立てさせられ、大垣より人数出、白旗を五十本計り立てならべ、足軽取り合いあり。駿河中村式部(一氏)馬上掛け合い、堤に鉄砲かけて待ち候ところ馳せ掛け、馬上二十余輩撃たれ申し候。入らず取り合いとて本多中務をあけに遣うべく候て」
家康は関ヶ原合戦前日の14日正午ごろに美濃赤坂の本陣に到着した。
家康は到着するとすぐに大垣城の方角に向かって馬印、旗を立て、家康自身が到着したことを知らせた。
大垣城には石田・島津・宇喜多・小西の主力部隊が入っていたが、旗や幟だけでは家康が来たかどうかは確認しがたい。
そこで、三成の家臣島左近らが中心になって杭瀬川周辺にいた中村一氏隊を急襲し、赤坂の本陣に向かって戦いを仕掛けた。
そこに徳川方の他の部隊も救援に駆け付けたところから、小競り合いとなった。
この戦いを本陣から見ていた家康は、味方の軍勢の思わぬ苦戦に何を思ったのか。
ただ、この時点では、徳川方は石田方の次の出方を警戒したはずで、ここからは赤坂丸山の本陣と大垣城の西軍首脳とのにらみ合いが続く可能性があった。
事実、家康は他の書状で大垣城を水攻めにすると伝えており、城攻めも視野に入れていたことは事実であろう。

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