関ヶ原合戦前夜「慶長記」を読む18 福島正則への警戒

小山に着いた大名たちには、食事の振る舞いはおろか、茶も出なかった。
福島正則、池田輝政、浅野幸長らの武将は家康の御意を聞いて、広間を出ると直ちに上方へ向かった。
この「慶長記」には、小山の会議の内容については何も触れられてはおらず、ただ、そこで家康の上意が本多忠勝と本多正信から発表され、それを聞いた諸将は直ちに上方へ向かったことが記されている。
彼らのもとには、上方で石田三成・大谷吉継が家康打倒の兵を挙げたことは伝わっていたと思われるが、家康糾弾の文書「内府違いの条々」が届いていたかは分からない。
「内府違いの条々」は豊臣公儀の正式文書であり、家康はこの時点で豊臣家の敵と断定されたことになり、同時に上杉征伐の大義名分は消えたことになる。
当然、上杉は征伐を受ける立場から、一転して家康と戦うことが正義となるというお墨付きを得られたことになる。
上杉が活気づいたことはいうまでもない。
家康は「内府違いの条々」が福島正則に届いたときの心変わりが心配であった。
豊臣公儀は何より秀頼を擁しているのである。
そのため、ここでは家康を討つことが秀頼の御為という論理になる。
秀頼を主と仰ぐ福島にとって、この文書で一転して敵になる可能性がないとは言えなかった。
家康は家臣の奥平藤兵衛貞治に福島の後を追わせた。
家康は小田原までに追いついたら、福島を呼び返し、追いつかなかったら帰ってくるようにと指示した。
だが、藤兵衛は追いつくことが出来ずに帰って来たのであった。
しかし、家康は黒田長政に福島の監視を依頼しており、それに加えて井伊直政を家康の名代として上方に送るつもりであった。
福島の動向は家康に従軍してきた豊臣大名の行方を決める。
家康はそう見ていた。

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