関ケ原前夜「慶長記」を読む22 小早川秀秋の接触

九月三日、家康は東海道小田原に着いた。
そこに、これまで石田方の中核部隊として行動してきた小早川秀秋が使者を遣わしてきた。
だが、家康はこれを取り合おうとはしなかった。
この小早川の使者が家康に何を伝えようとしたのかは分からないが、内応の意思表示ではなかったか。
小早川については、これまで黒田長政が再三にわたり家康に付くよう説得にあたっていたが、はっきりした返事をしてはいなかった。
また、別の史料では、近江の小早川の陣所を尋ねた家康の使者に秀秋が直接会い石田方の情報を伝え、徳川方に付く意思を示したとされている。
そこから、このころは家康に付く意思を固めていたのかもしれない。
また、石田方として犬山城に入っていた加藤貞泰も家康に付く意思を伝えて来た。
岐阜城陥落は、美濃の大名たちに家康の力を見せつける結果となった。
九月八日、家康は白須賀に到着した。
そこに藤堂高虎が家康を訪ねてやってきた。
二人は今後の行動について夜半まで協議を重ねた。
三日に続いて、ここ白須賀にも小早川秀秋の使者がやってきた。
小早川は何としても家康と接触したかった。
このとき、家康が使者をどう扱ったかは記載されてはいないが、しかるべき家臣につなげた可能性は高い。
この日は、関ヶ原合戦の一週間前にあたる。
小早川はこのとき家康方として動く決意を固めていたのではなかろうか。

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