関ヶ原合戦前夜「慶長記」を読む19福島正則の怒りと村越茂吉の智恵

慶長五年八月四日、家康は早朝に下野小山を出て、古河より舟に乗って江戸帰還を目指した。
途中、栗橋で舟橋を切ったため、お供は渡し船で川を渡るしかなかった。
十日、家康は江戸城で本多忠勝らと鶴料理を食した。
すると、そこに伏見城落城の知らせが寄せられた。
家康は西の方角を見ながら、一人はらはらと涙を流した。
本多忠勝らは密かに家康の側を離れ、家康をそっと一人にした。
このころ、尾張清州に到着した福島正則らは家康が到着しないことにいら立ちを見せていた。
「家康公には度々御出馬を催促しているが、少しも出馬なされる様子はない。我らは、ただ遊ばれるだけの碁の石のようなものか」と福島はことさら怒りを隠せず、池田輝政と口論になっていた。
家康はそんな彼らのことを察して、家臣の村越茂吉を彼らのもとに遣わしていた。
茂吉が清州に到着すると、それを待っていたとばかり、福島は「家康公の御出馬がないのは、我らを碁石のように遊ばされているのか」と茂吉に食ってかかってきた。
すると茂吉は、「家康公が御出馬されないのは、各々方がここで敵に対して何も手出しをなされないからである。各々方が敵を攻めて手柄でも立てられれば、家康公とて急ぎ御出馬なさるに違いありませぬ」と答えた。
福島は扇を広げ、茂吉の顔を三度仰ぎ「仰ることはごもっともでござる。すぐに敵に手出しを加え、よい知らせをお届けいたしましょう」と答えた。
茂吉は家康からの言付をただ伝えただけなのか、その場で当意即妙に答えを用意したのか。
それは今も分からないが、ただ、この茂吉の言葉により関ヶ原合戦の流れは大きく変わっていくことになったことは事実である。

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