関ケ原前夜「慶長記」を読む16 古田織部と佐竹義宣

家康が上杉を攻めるにあたって不安材料の一つは常陸の大名佐竹義宣の動向であった。
120万石の上杉と50万石の佐竹が手を組めば、さらに大きな脅威となって、家康の前に立ちはだかることになる。
何より、佐竹は石田三成との関係が深く、家康派ではない。
そこで、家康は佐竹のもとに古田織部を遣わし、佐竹に人質を出すよう交渉させたのであった。
佐竹は、小田原の北条氏に対しては堪忍できずに当時北条氏と同盟を結んでいた家康公と対峙したことがあったが、今はそのようなことはない。
しかし、人質に出すような人物は今は大坂に置いているので、家中には一人もいないと織部に伝えた。
家康はそんな佐竹の態度に不審を持ったが、三日後、再び織部を佐竹に遣わした。
織部は利休の高弟であり、佐竹にとっては茶道の師でもある。
家康はそんな織部に佐竹の様子を探らせようとしたのであろう。
そんなとき、上方から「内府違いの条々」という文書が届いた。
これは十三か条にわたって家康が秀吉の遺訓に背いた罪を列記した文書であったが、問題はこの文書が豊臣三奉行、すなわち豊臣家の正式文書として全国の諸大名に送られたことにあった。
ここにおいて、家康は豊臣家に弓を引く謀反人と断定されたことになり、上杉征伐そのものの大義名分が消滅してしまったことになる。
つまり、謀反人である家康が行おうとしている上杉征伐はただの徳川家と上杉家の私戦ということになったのであった。
さらに、それは、家康がここまで率いてきた豊臣大名に対する指揮権を失ったことにもなる。

タイトルとURLをコピーしました