関ケ原前夜「慶長記」を読む21伊達政宗の不安と家康の出馬

上杉攻めの最前線宇都宮城を守っていた秀忠が上終結していた徳川三万五千の本軍を率いて行くことになったことで、大きな不安を覚えたのは伊達政宗であった。家康、秀忠が関東を後にすることは徳川による上杉攻めが完全に消滅したことを意味する。
もう徳川の後押しはなくなり、考えようによっては、見捨てられたことにもなる。
伊達政宗はどこからの援軍もなくなり独力で上杉と戦わなければならなくなった。
家康は政宗に単独行動はしないこと、上杉を刺激しないよう、余計な手出しはせずにただ静観することを指示していた。
だが、それを政宗がどこまで守れるかは分からなかった。
政宗は自らが不利になれば、どんな行動を起こすか分からない。
上杉と手を組むことすらあった。
家康の心は揺れたが、これ以上上方への出馬を遅らせれば、今度は福島正則らがどうなるか分からない。
福島らが家康の指示を待たずに単独行動を取れば、この戦いは単に豊臣大名同士の内部分裂に終わってしまう。
それに、石田三成の背後には毛利輝元、秀頼がついている。
もし、毛利が秀頼を擁して大坂城から出馬することにでもなれば、福島らは沈黙を決め込むに違いない。
家康としては、それだけは阻止しなければならない。
それには、毛利の出馬前に自らが上方へ行って決着をつけるしかもう手段は残されていなかった。
九月朔日、家康は江戸を出た。
その日は西塞がりの日ゆえに大事な合戦に出発する日としてはふさわしくないとの家臣の忠告を家康は西が塞がっているから今日開けにいくのだと云い、江戸を出発した。
もし、ここで家臣の言うことを聞いて出馬を一日でも延期していたら、結果的に関ヶ原での勝利は危うかったことであろう。

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