関ケ原合戦前夜「慶長記」を読む17 下野小山を目指す大名たち

家康のもとには家康に従軍した大名たちの妻子が三成によって大坂城内の長屋で人質にされたとの知らせが届けられた。
細川忠興の妻はそれに抵抗して自害、屋敷は焼亡したという。
いよいよ戦いは本格化してきた。
このころ、上方から来る書状は結われた髪の中に忍ばせたり、編み笠の緒の中に混ぜられるなどして届けられていた。
7月25,26日、雨降る中、秀忠は宇都宮城に入った。
いつしか上方はいっぺんに家康の敵になり、上杉の重臣直江兼続は出羽の最上に働きかけ、山形城に籠っていた東北の武将は自分の領国に戻ってしまったため、最上は山形城で孤立することになった。
九州では、大友宗麟の嫡子で秀吉から改易になった大友義統が毛利の援軍を得て、豊前で黒田如水と戦い、肥後では加藤清正が宇土城を守る小西行長の兵と戦うなど、戦いは中央のみならず広範囲に広がる様相を見せていた。
そんな中、家康の子、結城秀康が下野お山に一番乗りを果たした。
秀康は小山にあった古城の中にある庄屋の屋敷を広間として使うことにし、奥に三間四方の仮御殿を作らせた。
やがて、この広間に大名たちが集まてきて、座敷の内四方の隅に中座して本多忠勝、本多正信から家康の上意を聞いた。

タイトルとURLをコピーしました