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三つの史料から見た小田原合戦 秀吉、毛利輝元に聚楽第を預ける

『川角太閤記』 天正十八年に北条御追討のために、御馬を向けられた。 国より次第に人数を繰り出された。(中略)小田原までの東海道の城々に御番衆を入れられた。 安芸の毛利輝元が思うには、家康の次には自分が遣わされるだろうと思い、京都まで出...
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三つの史料から見た小田原合戦 秀吉、派手な演出で小田原に向けて出発

『太閤さま軍記のうち』 秀吉、小田原出馬 天正十八年(1590)三月一日、関白秀吉公都を発たれ、その日のいでたちはいつも以上にすぐれて華やかであった。 馬廻りもきらびやかで言葉も及ばないほどであった。 古き昔から、末代までの見物と天...
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三つの史料から見た小田原合戦 家康への警戒

『日本史』 「だが、この北条殿の領国に赴くためには、どうしても北条殿の義父にあたり、五ヶ国の領主である家康と称するもう一人の強大な武将の領地を通過せねばならなかった。 その近くには信長の息子で御本所(信雄)と称される別の領主が控えていた...
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三つの史料から見た小田原合戦 小田原征伐の動機

「秀吉と小田原北条氏とのこと 北条左京太夫氏政は、近年、諸国横領せしめ、ほしいままにあい働き、朝恩を忘れ、綸命(りんめい)にも応ぜず、公儀をないがしろに扱い申す。しかりといえども、秀吉公御慈悲をおびしめされ、上洛いたし、参内しかるべきと、...
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三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経緯⑥

しかし、秀吉が後に五奉行となる長束正家に与えた十月十日の書状には、小田原合戦のため、兵糧二十万石と馬二万匹分の飼料の準備を命じ、同じく越後の上杉景勝には来年関東陣における軍役を知らせている。 これは名胡桃事件が起こる二十日以上前であり、こ...
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三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経過⑤

上洛が決まったのは、六月四日であったが、氏規が聚楽第で秀吉と対面したのは八月二十二日であった。 その場には、豊臣秀長、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、織田信雄、家康、さらには菊亭晴季をはじめとする最高位の公家たちも参列し、ここに氏規は秀吉...
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三つの史料からみた小田原合戦 合戦の経緯④

家康はすぐに北条家に起請文を送り、「今月中に兄弟衆を京都に遣わして、秀吉にお礼を申し上げること」「秀吉に出仕することに納得できないのなら、家康の娘(氏直正室督姫)を返していただきたい」と申し送った。 この起請文を見た北条家は、秀吉に臣従す...
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三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経緯③

天正15年(1587)北条氏は正月から小田原城の普請を始めたが、翌16年の春にかけて、上野の松井田城、箕輪城、金山城、厩橋城、武蔵の岩付城、八王子城、檜原城、下総の栗橋城、相模の足柄山城、伊豆箱根の山中城などの領内の主要な拠点城郭の普請を行...
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三つの史料から見る小田原合戦 小田原合戦の経緯②

家康も今や関白になり、天下人の道を歩み始めた秀吉を相手に戦うことには大きなデメリットを感じていた。 そこで、秀吉との和睦に応じることにしたが、家康はその前に東海道の沼津で北条氏政との会談を行った。 そこで両者は互いに多大の贈り物をし、互...
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三つの史料から見る小田原合戦 小田原合戦の経緯①

小牧・長久手の戦い終了時、天正13年(1585)四月から六月にかけて、家康は北条との同盟関係をより確かにするために、真田昌幸に沼田の地を北条に譲渡させるよう甲斐に向かった。 家康はそれを北条家に伝え、北条家は沼田を受け取るために、上野の新...
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