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ポスト秀吉⑪

家康は6月16日に兵を率いて大坂を発ったが、「リーフデ号」にも堺を出帆させ、相模の浦賀まで渡航させた。 浦賀に着くころには、家康はすでに江戸に入っていたという。 この浦賀への移動の理由は船に搭載されていた武器を会津討伐に使うためであった...
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ポスト秀吉⑩

二日目、家康はイギリスとスペイン・ポルトガルとの戦争について質問を繰り返し、その戦争の原因についても執拗に問い質した。 ここでは家康は「リーフデ号」が海賊船であるかということより、日本の防衛、つまり、日本が彼らの国際戦争に巻き込まれる可能...
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ポスト秀吉⑨

一方で、漂流船は、多くの武器・弾薬を積載していたことから、イエズス会の言うような海賊船との疑いも捨てきれなかった。 ただ、家康はポルトガルとオランダ・イギリスが戦争中であることを知っており、イエズス会がオランダやイギリスを海賊呼ばわりして...
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ポスト秀吉⑧

家康はポスト秀吉の外交方針として、平和外交を望んでいた。 家康は手始めに朝鮮出兵していた武将たちを日本に帰国させたが、それは明や朝鮮との国交正常化を早期にはかるためであった。さらに、家康は東アジアの他の諸国にも書簡を送って外国貿易の促進に...
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ポスト秀吉⑦

もし、このまま国力が低下していけば、東アジアの覇権を狙うスペイン・ポルトガルに付け入る隙を与え、日本の植民地化につながる事態を招くとも限らない。 ただ、ポルトガル・スペインは朝鮮半島をあっという間に制圧した日本の高い軍事力に恐れをなし、日...
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ポスト秀吉⑥

しかし、そのようn政権運営に異を唱える実力を持った大名が一人存在した。 それが徳川家康であった。 秀吉の死後から十日後の八月二十八日、中国120万石の毛利輝元は増田長盛・石田三成・長束正家・前田玄以に対し起請文を提出した。 その内容は...
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ポスト秀吉⑤

秀吉は、秀頼への確実な政権委譲のためには、すでに対抗勢力となりつつあった現関白秀次の排除とその勢力の解体が必要だと考えた。 そこで、秀吉は秀次に謀反の疑いをかけ、関白の座を奪い、一時的に高野山に追放しようとしたが、秀次は秀吉の意に反して、...
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ポスト秀吉④

豊臣秀吉は武家による関白政権として豊臣家の未来図を描いていた。 秀吉には晩年嫡子鶴松も誕生し、豊臣家の未来は秀吉の思惑通りに進むかに見えた。  しかし、鶴松がわずか三歳で夭折したことから、秀吉は実子を諦め、実姉ともの子、つまり秀吉の甥秀...
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ポスト秀吉③

太閤検地と呼ばれるこの検地はこれまでと異なり、米だけではなく、領内の特産物や裏作までも細かくその対象としていたが、それは、農民からのさらなる搾取をも意味していた。 この新たな検地により、大名たちの石高は当初より大幅に増えたが、農民からの搾...
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ポスト秀吉②

朝鮮に渡ることになった武将たちは、秀吉によって割り当てられた軍役を果たすため領内の村々へ厳しい人数の徴発を行った。 朝鮮に渡るためには、兵や武器、馬などを大量に運ぶための船、それを運転する船頭、船の世話をする水夫、それに加えて陸上、海上の輸...
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