ポスト秀吉⑭

秀吉死後、家康は六男忠輝に伊達政宗の長女を娶り、福島正則の子息正之と蜂須賀家政の子息豊雄に家康の長女を嫁がせるとの約束を行った。
これは、秀吉の存命中である文禄四年(一五九五)に発せられ誓書までも取り交わされていた、大名間の私婚の禁止令への明らかな違反行為であった。
この婚姻はただの姻戚関係を築くものではなく、同盟にもつながるものであった。
ゆえに、秀吉はこれを禁じたのであった。
本来であれば、大老の筆頭として、この遺言を誰よりも率先して遵守しなければならない立場にあるはずの家康が、それを自ら破ったのであるから、ことは重大であった。
慶長三年正月、大坂の大老より中村一氏、生駒親正、堀尾吉晴が家康の詰問使として遣わされた。
彼らは家康にその事実関係を糺し、弁明の叶わぬ時は大老の列から外すことを申し入れた。
しかし、家康はこれに対し、「ただの忘却からおこったもので他意はない。だが、これは一体誰の讒言によるものか、自分を秀頼公の補佐から除こうとする企みなのではないか、それこそ亡き太閤殿下のご遺命に反するものではないか」と反論し、逆に詰問使に問い質した。
これにより、この問題は、家康、大老前田利家、奉行たちとの間に緊張感を走らせることになった。
家康に心を寄せる豊臣大名加藤清正、浅野幸長、福島正則、細川忠興、池田輝政らは家康の伏見屋敷の防衛にあたり、家康の重臣本多正信、榊原康政らも馳せ参じる騒ぎとなった。
この事態が大きくなるのを憂いた大老前田利家は、家康の屋敷を訪問し、家康と和を結び誓書を交換することでとりあえずは落着させた。

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