ポスト秀吉⑪

家康は6月16日に兵を率いて大坂を発ったが、「リーフデ号」にも堺を出帆させ、相模の浦賀まで渡航させた。
浦賀に着くころには、家康はすでに江戸に入っていたという。
この浦賀への移動の理由は船に搭載されていた武器を会津討伐に使うためであったと推測されている。
これらことから、家康の国際感覚と日本の防衛を案じる強い責任感が読み取れる。
このとき、家康は豊臣政権大老筆頭として、大坂城にあって秀頼を補佐し、政務を執っていた。
この事件は上杉征伐の直前であるが、家康の頭の中は、いかに日本の舵取りを行っていくかというビジョンがすでに形として存在していた。

家康はその実現のためには、家康自身が自分との政争に明け暮れる奉行たちを排して、豊臣政権内において絶大な権力を有する存在にならなければならないとの思いを強めていた。
政治に停滞は許されない。
だが、それは必然的に奉行たちと家康との間に軋轢を生むことになる。
だが、家康自身は秀吉が亡くなるまでは自身のビジョンなど全くおくびにも出すことなどなかった。
「イエズス会日本報告書(1597~1601)」には「日本国のすべての諸侯は太閤様に非常な恩義を受け、そしてまた現在七歳の彼の嗣子のために、国家を保持するために驚くほど心配しているので、家康が太閤様の遺命によってすべてを統治している限りは、彼らは家康に快く服従するだろうからである。しかし、もし、彼が専主の地位を獲得しようと努め、皆が彼一人に抵抗したとしたら、このために日本国全土は非常に過酷な戦さによって燃え上がるであろう。しかし、家康は賢明な人物であり、また齢を重ねているので不確かで危険に溢れたことを己が栄誉と評判を大いに犠牲にしてまで追求しようとする冒険に容易に身を曝すことはあるまい。なぜなら、彼はその誠実さによって、また、太閤様への信頼の点で、日本人たちが吹き込んだ最良の意見を無視することはないだろうからである」とある。

タイトルとURLをコピーしました