ポスト秀吉⑫

家康は秀吉の存命時には、秀吉に従順で忠実で豊臣政権の重鎮として振舞っており、諸大名からの信頼も厚かった。
秀吉が朝鮮出兵を実行するにあたって、大きな不安をもっていたのは豊臣政権の重鎮である家康や前田利家の反対であった。
秀吉は朝鮮の侵略が成れば、それに参陣した大名たちに封土を与えると約束していたが、負担の大きい西国九州の島津氏や大友氏、四国の長曾我部氏などは、秀吉から約束された朝鮮の領地をもらうより、従前の領地が保証されればそれでよいとの思いをもっていた。
それは朝鮮に駆り出されることになっていたすべての諸侯の思いでもあった。
諸将たちは内心は皆、この戦に反対であった。
だが、さりとて秀吉の意に従わざる者などあるはずはなかった。
だが、この朝鮮出兵に真っ向から反対した武将がただ一人いた。それは、秀吉の実弟大和大納言秀長であった。
「唐・朝鮮まで大軍を出して切従えるなど、愚かの極み。諸将たちにとって、それは膨大な出費となり、何より百姓の窮乏は明らかである」
秀長は死の病床にあっても、朝鮮のことになると声を荒立て反対していた。
だが、やがて、秀長は亡くなり、諸将は一縷の望みを失ってしまった。
しかし、彼らは、もう一人の大物武将に最後の望みを託していた。
それは、今や、関東250万石を領する大大名徳川家康であった。
秀長が亡くなった今、秀吉に諫言できる人物といえば、家康を除いて他には誰もいなかった。

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