ポスト秀吉⑮

、家康を大老から除く企てに失敗した奉行たちは逆に厳しい状況に追い込まれることになり、私婚は不問に付され、奉行らは謝罪することになった。
家康の行った私婚の企みは、秀吉の遺言に背くアンフェアな行為であった。
そこには、露骨に有力な豊臣大名を自分の陣営に取り込もうとする意志が見え隠れしていた。
また、家康はあえてこの行為を取ることによって奉行たちと全面対決する意思を明確にしたともいえる。

しかし、秀吉の遺言に背くアンフェアな行為をしたのは家康だけではなかった。
政権側にあるはずの当の奉行たちもそれを行っていた。
中国120万石の大名毛利輝元には長く実子が出来ず、そのため後継者は秀吉によって、祖父元就の四男元清の子秀元と認められていた。
しかし、秀吉はその一方で、もし、輝元の実子が出来たらその子を後継とし、秀元には相応の領地を与えるようにとも言い残していた。
文禄四年(1595)に輝元に多忙の実子松寿丸(秀就)が誕生した。
ここに輝元は秀吉の了解のもとに、毛利家の後継を松寿丸とし、秀元には相応の領地を割譲することとした。
そこでは、秀吉の存命中に出雲と石見(銀山を除く)を与えることが決まった。
しかし、秀吉が没すると奉行石田三成と増田長盛は秀元への割譲を出雲・壱岐・伯耆三郡とした。
ここに奉行たちは秀吉の決めた輝元の秀元への割譲分を減らし、輝元に優位な措置を取ったのである。

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