ポスト秀吉⑩

二日目、家康はイギリスとスペイン・ポルトガルとの戦争について質問を繰り返し、その戦争の原因についても執拗に問い質した。
ここでは家康は「リーフデ号」が海賊船であるかということより、日本の防衛、つまり、日本が彼らの国際戦争に巻き込まれる可能性がないかを案ずる質問であった。
また、当然のように、船に搭載されていたイギリスの武器・弾薬等についても関心があったことであろう。
これによって、家康は宣教師の布教活動とスペイン・ポルトガルの帝国主義が一体となって繰り広げられているという事実を確認することが出来た。
二回目の尋問の数日後家康は大坂城を発って伏見城に入り、京都で朝廷主催の山城豊国神社参詣に赴き、京都の相国寺を訪問した後、四日後、大坂城に戻った。
そこで、上洛命令に対する上杉景勝の返答を待つと同時に会津討伐の準備を進めた。
家康は豊後に停泊していた「リーフデ号」を堺まで移動させ家康自身が堺に赴き、多くの大砲や武器、毛織物などを自ら検分し、それらを売却させた。
アダムスらは41日間、大坂城で家康から尋問を受け、家康は数多くの質問をしたが、それが終わるとアダムスたちを船に帰した。

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