ポスト秀吉⑯

先に、奉行たちは家康と不和になったとき、輝元に奉行衆との連携を呼びかけた起請文を輝元に提出させているが、奉行たちは家康に対抗する勢力として、秀吉の裁定を曲げてまでも中国120万石の毛利を何としても陣営に取り込みたかった。
家康に対抗するには、強力な軍事力が必要であり、奉行衆はそれを毛利に託そうとした。
ここにポスト秀吉の戦いは、すでに始まっていた。

そんな中で起こったのが慶長四年(一五九九)閏三月、福島正則、黒田長政、浅野幸長ら豊臣系大名七将によって引き起こされた石田三成襲撃事件である。
この襲撃事件の背景には根深いものが存在していた。
当時、朝鮮から捕虜として日本に連行され、当時伏見にいた朱子学者姜沆が著した『看羊録』によれば、この襲撃事件の背景には、朝鮮出兵、特に慶長二年(一五九七)十二月の蔚山(うるさん)城籠城事件をめぐっての三成と彼らとの間の深い確執があったという。
蔚山城籠城事件というのは、朝鮮の役で蔚山城に籠城していた浅野幸長や加藤清正ら二千の日本軍と城を包囲した六万の明軍との間で行われた戦闘のことである。
戦闘は当初は数で劣る日本軍が劣勢で、落城は時間の問題と思われていたが、黒田長政、蜂須賀家政ら二万が援軍に駆けつけ、最終的に日本軍は明軍を退け、城を守ることに成功し劇的な勝利を勝ち取った。
日本軍にとって誇るべき事件であった。
だが、このとき、日本軍はなぜか逃げる連合軍を追撃せず、結果として彼らを討ち逃がすことになってしまったのであった。

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