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三つの史料から見る小田原合戦 小田原合戦の経緯②

家康も今や関白になり、天下人の道を歩み始めた秀吉を相手に戦うことには大きなデメリットを感じていた。そこで、秀吉との和睦に応じることにしたが、家康はその前に東海道の沼津で北条氏政との会談を行った。そこで両者は互いに多大の贈り物をし、互いに舞を...
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三つの史料から見る小田原合戦 小田原合戦の経緯①

小牧・長久手の戦い終了時、天正13年(1585)四月から六月にかけて、家康は北条との同盟関係をより確かにするために、真田昌幸に沼田の地を北条に譲渡させるよう甲斐に向かった。家康はそれを北条家に伝え、北条家は沼田を受け取るために、上野の新田に...
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気候変動と戦国時代④ 領民が支持した信玄のクーデター

平山優氏は『川中島の戦い』の中で、この信虎追放の年は過去百年にも前例がないほどの飢饉が全国的に発生しており、これが背景となっていたとする。氏によれば「連年の見返りなき出兵に疲弊した武士階級や民衆は、天文十年(一五四一)の大飢饉で深刻な生命の...
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気候変動と戦国時代③ 武田信玄 父信虎を追放す

甲斐では永正元年(一五〇四)に「飢饉」(『高白斎記』)、永正二年(一五〇五)「疫病」(『塩山向岳禅庵小年代記』)永正七年(一五一〇)「大地震」(『高白斎記』)という災害が絶え間なく起こっていたが、信玄の父信虎はそれでも、その後、国内の有力領...
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気候変動と戦国時代② 飢餓・疫病に満ちた甲斐の国

気候変動という視点から、武田信玄の領国甲斐の様相をみてみると、今まで我々が想像もしなかった事態が信玄の時代に発生していたことが分かる。 戦国時代の甲斐では、藤木氏や峰岸氏の指摘通り、飢饉・疫病が間断なく続き、それは領民の生活を直撃していた。...
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気候変動と戦国時代① 異常気候に見舞われた戦国時代

戦国時代といえば、これまで、群雄割拠の時代、つまり長期化した内乱、応仁の乱で中央政府ともいうべき足利将軍=室町幕府の弱体化に伴い、各地に勢力を持ち始めた戦国大名たちが競って天下を争った時代であるとされてきた。そこでは、力のある者が上位の者を...
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『川角太閤記』巻2を読む  前田又左衛門の裏切りと柴田の敗軍

(前田又左衛門が)合戦に取り結ぶにおいては、裏切り願いたく思うが、かねてから軽々しく裏切りはしないと思われている。(前田又左衛門は)合戦には構うことはしないということは裏切り同然であるとお心得なさってくださいと仰せ遺された。又左衛門殿よりは...
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『川角太閤記』巻2を読む 賤ケ岳の合戦始まる

秀吉は賤ケ岳へと馬を早められたが、道々在々の庄屋・大百姓たちを召し寄せて、「蔵を開き、めしを炊かせよ。馬のはみを粟ぬかにせよ。先手先手に持っている嗜みの米を出し、焼かせよ。米の算用は百姓たち、自分の米ならば十数倍にして後で取らせよう。急げ急...
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『川角太閤記』巻2を読む 秀吉、賤ケ岳へ

越前に遣わしていた目付が帰り、「峠の雪はもはや積もりました。馬などの通行ももう難しいと思います」との事である。「時分は良い」と播磨を打ち立たれることになった。宇喜多八郎(秀家)を先陣とし、一万五千の兵を率いてはや播磨に詰められた。隣国の大名...
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『川角太閤記』巻2を読む 秀長、姫路に帰還する

次の日、美濃守(秀長)は越前の勝家のもとを発たれた。播州にて歓待したように、二三里も北庄より送られたところに仮の館を建てられ、御馳走をなされたそうだ。黒い馬、葦毛の馬、二つ鞍を置かせて、「まずまずの馬であるが、長い道のりなので使ってください...