家康はすぐに北条家に起請文を送り、「今月中に兄弟衆を京都に遣わして、秀吉にお礼を申し上げること」「秀吉に出仕することに納得できないのなら、家康の娘(氏直正室督姫)を返していただきたい」と申し送った。
この起請文を見た北条家は、秀吉に臣従することを模索し始めた。
北条家は家康の忠告通り、氏政の三番目の弟氏規を上洛させることを決めた。
しかし、この上洛はなかなか実現しなかった。
気をもんだ家康は家臣朝比奈泰勝を北条家に催促の使いに出した。
しかし、北条家にはそれができない事情があった。
それは、上洛するにあたっての金がなかったからである。
北条氏は拠点城郭の普請、すなわち対秀吉への防衛強化を大々的に行っており、これにかなりの金をかけていた。
これにより、領主、百姓までもが疲弊していた。
この上で上洛費用を捻出するのは困難であった。
北条家の上洛となれば、それなりの格式が必要になる。
連れていく兵の宿舎も滞在費用もばかにならない。何より、秀吉への贈答・進物だけでも莫大な費用がかかるのである。
氏政の実弟で武蔵鉢形城(埼玉県寄居町)の北条氏邦は家臣たちに宛てて「この度、氏規が上洛することになったが、費用は二万貫を各々が分担することになり、当家は三百貫ないし四百貫を負担することになろう。これだけの大金をどうにも賄いきれないので、お前たち家臣からも知行高や扶持の高に応じた額を出してもらうことにした。
だが、その分、これまで課していた税金を免除し、当年の税金は半分でよい」と北条家にとって上洛費用の捻出が困難であることを述べている。
この金の調達が遅れたため、北条氏は上洛が遅れたのである。
三つの史料からみた小田原合戦 合戦の経緯④
