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三つの史料から見た小田原合戦 家康への警戒

『日本史』「だが、この北条殿の領国に赴くためには、どうしても北条殿の義父にあたり、五ヶ国の領主である家康と称するもう一人の強大な武将の領地を通過せねばならなかった。その近くには信長の息子で御本所(信雄)と称される別の領主が控えていた。この両...
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三つの史料から見た小田原合戦 小田原征伐の動機

「秀吉と小田原北条氏とのこと北条左京太夫氏政は、近年、諸国横領せしめ、ほしいままにあい働き、朝恩を忘れ、綸命(りんめい)にも応ぜず、公儀をないがしろに扱い申す。しかりといえども、秀吉公御慈悲をおびしめされ、上洛いたし、参内しかるべきと、度々...
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三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経緯⑥

しかし、秀吉が後に五奉行となる長束正家に与えた十月十日の書状には、小田原合戦のため、兵糧二十万石と馬二万匹分の飼料の準備を命じ、同じく越後の上杉景勝には来年関東陣における軍役を知らせている。これは名胡桃事件が起こる二十日以上前であり、ここか...
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三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経過⑤

上洛が決まったのは、六月四日であったが、氏規が聚楽第で秀吉と対面したのは八月二十二日であった。その場には、豊臣秀長、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、織田信雄、家康、さらには菊亭晴季をはじめとする最高位の公家たちも参列し、ここに氏規は秀吉の並...
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三つの史料からみた小田原合戦 合戦の経緯④

家康はすぐに北条家に起請文を送り、「今月中に兄弟衆を京都に遣わして、秀吉にお礼を申し上げること」「秀吉に出仕することに納得できないのなら、家康の娘(氏直正室督姫)を返していただきたい」と申し送った。この起請文を見た北条家は、秀吉に臣従するこ...
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三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経緯③

天正15年(1587)北条氏は正月から小田原城の普請を始めたが、翌16年の春にかけて、上野の松井田城、箕輪城、金山城、厩橋城、武蔵の岩付城、八王子城、檜原城、下総の栗橋城、相模の足柄山城、伊豆箱根の山中城などの領内の主要な拠点城郭の普請を行...
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三つの史料から見る小田原合戦 小田原合戦の経緯②

家康も今や関白になり、天下人の道を歩み始めた秀吉を相手に戦うことには大きなデメリットを感じていた。そこで、秀吉との和睦に応じることにしたが、家康はその前に東海道の沼津で北条氏政との会談を行った。そこで両者は互いに多大の贈り物をし、互いに舞を...
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三つの史料から見る小田原合戦 小田原合戦の経緯①

小牧・長久手の戦い終了時、天正13年(1585)四月から六月にかけて、家康は北条との同盟関係をより確かにするために、真田昌幸に沼田の地を北条に譲渡させるよう甲斐に向かった。家康はそれを北条家に伝え、北条家は沼田を受け取るために、上野の新田に...
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気候変動と戦国時代④ 領民が支持した信玄のクーデター

平山優氏は『川中島の戦い』の中で、この信虎追放の年は過去百年にも前例がないほどの飢饉が全国的に発生しており、これが背景となっていたとする。氏によれば「連年の見返りなき出兵に疲弊した武士階級や民衆は、天文十年(一五四一)の大飢饉で深刻な生命の...
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気候変動と戦国時代③ 武田信玄 父信虎を追放す

甲斐では永正元年(一五〇四)に「飢饉」(『高白斎記』)、永正二年(一五〇五)「疫病」(『塩山向岳禅庵小年代記』)永正七年(一五一〇)「大地震」(『高白斎記』)という災害が絶え間なく起こっていたが、信玄の父信虎はそれでも、その後、国内の有力領...