気候変動と戦国時代② 飢餓・疫病に満ちた甲斐の国

 気候変動という視点から、武田信玄の領国甲斐の様相をみてみると、今まで我々が想像もしなかった事態が信玄の時代に発生していたことが分かる。
 戦国時代の甲斐では、藤木氏や峰岸氏の指摘通り、飢饉・疫病が間断なく続き、それは領民の生活を直撃していた。
 信玄より時代が遡るが、甲斐国の守護武田家では明応元年(一四九二)、信玄の祖父、信縄の代に家督相続をめぐって、信縄とその弟油川信恵の間で六年にもわたる長期にわたって抗争が繰り広げられていた。
 だが、この抗争に終止符が打たれたのは、両者による合戦の結果ではなく自然災害が原因であった。
 明応七年(一四九八)に甲斐に突然襲った大災害により、両者は戦いがそれ以上継続できなくなってしまったのであった。
 この明応七年(一四九八)、甲斐国は六月に「大地震」(『高白斎記』)、八月には「大雨・大風」「天地震動」(『王代記』)があり「日本国中の堂塔乃至諸家悉く」崩れ落ちる(『勝山記』)というほどのすさまじい大地震に見舞われていた。
 この大地震はその後明応九年(一五〇〇)まで三年間連続して起こっていた(『王代記』)というからその被害の大きさが分かる。
 次に甲斐が大きな災害に見舞われるのは、この内乱後、信縄の後を継いだ若冠十四歳の武田家当主信虎(信玄の父)が再び反旗を翻した油川信恵と戦い、信恵親子を討ち取った永正五年(一五〇八)前後である。
 この間、甲斐では永正元年(一五〇四)に「飢饉」(『高白斎記』)、永正二年(一五〇五)「疫病」(『塩山向岳禅庵小年代記』)永正七年(一五一〇)「大地震」(『高白斎記』)という災害が絶え間なく起こり、国と民衆の疲弊はさらに続いた。

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