三つの史料から見る小田原合戦 小田原合戦の経緯②

家康も今や関白になり、天下人の道を歩み始めた秀吉を相手に戦うことには大きなデメリットを感じていた。
そこで、秀吉との和睦に応じることにしたが、家康はその前に東海道の沼津で北条氏政との会談を行った。
そこで両者は互いに多大の贈り物をし、互いに舞を披露するなどして友好を深めた。
この会見の趣旨は、家康が秀吉と和睦しても、北条家とは親密な関係を維持するということを確認するものであった。
家康は北条家と徳川家の領地の境に築かれていた三枚橋城(沼津城)の塀を壊し、そこにあった兵糧一万俵を北条氏に進呈し、北条氏への武装解除をここでアピールした。
ここに家康は北条氏との同盟を継続しながら、秀吉との和睦に踏み切ったのであった。
しかし、家康は秀吉の実弟旭姫を正室に迎え、さらには、秀吉は実母までも家康のもとに送ったことで、ついに秀吉の軍門に下り、秀吉に臣従することになった。
このころ、北条氏が領国の武将に発給した文書には「万一、京都において異変があったときは、当家は家康との約定通り、躊躇なく彼の国を支援する」「京都において、家康の身に何かあれば、時を移さず出馬する」「当家の興亡はこのときにかかっており、これまでの慣例にこだわらず、十五歳から七十歳までの者にも参陣を命じよ」とあり、家康と秀吉との対面が不調に終わったときのことを想定し、その際は家康と共に秀吉と戦う意思を鮮明にしていたことが分かる。
ここから、北条氏は家康が秀吉に臣従したとしても、北条家と敵対することはないと固く信じている様子が見て取れる。

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