気候変動と戦国時代④ 領民が支持した信玄のクーデター

平山優氏は『川中島の戦い』の中で、この信虎追放の年は過去百年にも前例がないほどの飢饉が全国的に発生しており、これが背景となっていたとする。
氏によれば「連年の見返りなき出兵に疲弊した武士階級や民衆は、天文十年(一五四一)の大飢饉で深刻な生命の危機に面していた」とし、信玄はこれを好機と見て、父信虎を追放し、あわせて代替わりの徳性を実施することで諸階級の苦難を和らげる施策を実現したという。
信玄の起こしたクーデターには領民の大きな支持があったのである。
甲斐の領民、さらには、家臣たちはもう信虎の為政についていけず信玄に期待するより外に生き延びる術はなかったといえる。
信玄はその現状を知悉していたがゆえに実父信虎の追放に踏み切らざるを得なかったのである。
このように、信虎追放劇の背景には深刻な飢饉が関係していた。
この追放事件により、甲斐は二十一歳の若き武田晴信(信玄)が国主となった。
だが、信玄が国主になって最初に取り組んだことは、内政の充実でも撫民対策でもない。
それは、父信虎の跡を継承した信濃諏訪侵攻であった。
そこには、一見、何らの新しい政策も進歩もみられない。
国主がただ信虎から晴信(信玄)に代わっただけで結局信濃侵略という戦争の継続でしかなかったように思われる。
しかし、甲斐国内では信虎の働きで内乱はすべて終止符が打たれていた。他国からの侵略さえなければ、もう、戦争が原因で国土が疲弊することなどはなかった。あとは、慢性ともいうべき天変地異による飢饉状態を脱するため、そして他国からの侵略を防止するために、国を一つにして隣国信濃を侵略していくしか方途はなかった。
信玄の肩には何よりも自国の飢餓の克服という大きな使命が課せられていたのであった。

タイトルとURLをコピーしました