『川角太閤記』巻2を読む 賤ケ岳の合戦始まる

秀吉は賤ケ岳へと馬を早められたが、道々在々の庄屋・大百姓たちを召し寄せて、「蔵を開き、めしを炊かせよ。馬のはみを粟ぬかにせよ。先手先手に持っている嗜みの米を出し、焼かせよ。米の算用は百姓たち、自分の米ならば十数倍にして後で取らせよう。急げ急げ」とご自分で御触れなされた。
「飯が出来たら空いた俵の端をそのまま置いて、俵を縦に切り上げ、中へ塩水の辛いのでよく湿し、食べ物を入れよ。飯が出来たら牛馬に付けて賤ケ岳を目指して急ぐのだ。粟ぬかには木の枝かがみなどを印に付けよ。後から人数が続けば草臥れる者が多いことだろう。これらの者に食をして進むのだ」と言い聞かせよ。食べ物は多いはずだ。食を二倍も取るものがいれば、そのまま取らせよ。食は着る者に包むのだ。手ぬぐいなどに包んでもよい。印のある俵を食と勘違いするものがいたら、これは馬の粟ぬかで必要な時に渡すものである。」と。
仰せのように、道々にて倍取る者、又はもらうだけの者、数を知らずあったが、言う通りにさせ、渡したということである。
道中、人数が移動するときは幟、指物、絹絞り、道中はそれで一杯であった。
二十日夜に入り、賤ケ岳山下へ夜に紛れ、お入りなされたたが、すでに三つの砦の内、中川瀬兵衛が立て籠もっていた城は佐久間玄蕃が落城させ、瀬兵衛討ち死にとの注進があった。
この砦には馬上の武士が二百六十騎、総勢二千が入っていたが、すべて討ち死になされた。
柴田側も手負い死者数を知れないということだ。

この近辺の百姓たちを呼び出され、この度の合戦について説明なされ、「皆は土地の案内に精通していることであろう。筑前守の者をお前たちに付けるのでよろしく頼む」と仰せられ、金一枚遣わされた。
「難なく戻ることが出来たら二枚遣わそう。この者を連れて、前田又左衛門の陣へ紛れて入れ」とのことであったので大方は山を転わって行くことであろうと御請け申す状を遊ばされ、前田又左衛門殿へ遣わされたので、夜に紛れ、ここまで到着した人数残りなく引き連れて篝火の数を尽くして焼かせられた。
火が多く見えれば、明日の合戦と思われるであろう。

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