三つの史料から見る小田原合戦 小田原合戦の経緯①

小牧・長久手の戦い終了時、天正13年(1585)四月から六月にかけて、家康は北条との同盟関係をより確かにするために、真田昌幸に沼田の地を北条に譲渡させるよう甲斐に向かった。
家康はそれを北条家に伝え、北条家は沼田を受け取るために、上野の新田に軍勢を待機させていた。
しかし、真田はこれを拒否したばかりか、家康を見限り、越後の上杉景勝のもとに走ってしまった。
家康は、北条氏に面目をほどこすため、同年閏八月真田の上田城を攻めたが敗れてしまう。
このとき、北条軍も沼田に侵攻したが、これは家康からの要請によるものであった。
そして、両者は10月に同盟の強化をはかるために起請文を交わしている。
その翌日の北条氏直の書状には「家康と秀吉が万一戦となった時は、家康に味方することをあらためて誓約した」とある。
ここに、家康と北条氏両者は秀吉を敵として戦うとの意識を共有していたことが分かる。
ところが、この三ヶ月後の天正14年(1586)一月天正大地震が起きて、秀吉が家康攻めのために準備した近江長浜城や美濃大垣城、伊勢亀山城などが倒壊し、堺も大きな被害を受けたことから、秀吉は家康との戦いを断念し、家康との和睦の方向を模索し始めた。
しかし、そうなると、今度は家康と北条氏とのスタンスに微妙な変化が生じて来た。

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