三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経緯③

天正15年(1587)北条氏は正月から小田原城の普請を始めたが、翌16年の春にかけて、上野の松井田城、箕輪城、金山城、厩橋城、武蔵の岩付城、八王子城、檜原城、下総の栗橋城、相模の足柄山城、伊豆箱根の山中城などの領内の主要な拠点城郭の普請を行って、対秀吉戦に備えた構えを取った。
同時に北条氏は領内に触れを出し、「お国のため」と一般庶民に至るまでの動員令を出した。
また、寺には梵鐘の供出を求めた。
これらは鉄砲や弾薬を製造するためであった。
まさに、そこにはなりふり構わずに秀吉に対抗しようとする北条氏の姿が見え隠れする。
しかし、これらの措置に一般庶民は反抗し、漁師が退転して他所へ逃げ出したり、百姓たちは欠け落ちして村から逃げる者が後を絶たなくなっていた。
中には、領主までもが逃げ出したところもあり、領民の疲弊は重なるばかりであった。
このころ、秀吉は家康が臣従したことで、北条氏を孤立させることに成功し、北条征伐を口にするようになっていた。
後はその大義名分をどうするかであった。
また、秀吉はこのころ明確に家康に北条征伐を伝えていた。
しかし、家康はこれに反対したようで、秀吉の書状に「駿河大納言家康が北条家の縁者であったため、誅罰しないようにと懇願するのでいくつか条件を出した」とある。
家康は秀吉の北条攻めを回避するために精一杯の努力をしていたのである。

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