三つの史料から見た小田原合戦 秀吉、毛利輝元に聚楽第を預ける

『川角太閤記』
天正十八年に北条御追討のために、御馬を向けられた。
国より次第に人数を繰り出された。(中略)小田原までの東海道の城々に御番衆を入れられた。
安芸の毛利輝元が思うには、家康の次には自分が遣わされるだろうと思い、京都まで出陣してきたところ、この聚楽の城を輝元に預けるとの御意があった。
秀吉が出陣している間は天下の政治を、すなわち輝元を天下殿と思へとの御意で、聚楽の城を預け為された。
小早川隆景には清州城の御番を仰せつけられ、三河の岡崎城は吉川広家に御番を仰せつけられた。
秀吉様の出陣は二月二十日時分である。
禁中より八条殿を勅使に立てられ色々御祝物進ぜられた。
「東路や春の小田原打ち返し たねまきそむる雲の上人」と詠まれたと聞いている。
秀吉様が聚楽より出陣なされた時のいで立ちは朱具足、御腰の物は六尺あまりのはくのし付、両腰御鞆打ちさめの上、大菱である。(後略)
秀吉様が小田原に陣を取られたとき、小早川隆景の馬廻り衆、二三十騎が小田原に見回りにやってきた。
その理由は、聚楽より三河の岡崎までは毛利家が預かっている。
また、大事の清州城をも預け置かれているのに、見舞いもせぬとは心もとないとのことで後は弟の藤四郎に頼んで、わずか二三十騎にてやってまいりました。御陣に詰めさせていただきたいとのこと。安国寺恵瓊も一緒に来て陣に詰めた。

秀吉は留守を毛利輝元に任せ、聚楽第を任せた。
吉川広家には尾張清州城を任せた。
秀吉は、毛利を厚遇したのであった。
聚楽第を任された毛利輝元は、城館の隅々まで詳細に観察し、それを参考に自分の城を築いた。
広島城の縄張りは聚楽第に酷似しており、青山学院大学名誉教授の故桜井成廣先生によれば、寸法まで聚楽第と同じであったという。

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