三つの史料から見た小田原合戦 秀吉、派手な演出で小田原に向けて出発

『太閤さま軍記のうち』
秀吉、小田原出馬
天正十八年(1590)三月一日、関白秀吉公都を発たれ、その日のいでたちはいつも以上にすぐれて華やかであった。
馬廻りもきらびやかで言葉も及ばないほどであった。
古き昔から、末代までの見物と天皇も叡覧なされ、興味ふかくご覧になり、その喜びは一様ではなかった。
上下万民も、興味津々である。
(中略)淀殿、松の丸様も御同陣なされ、輿の数は三十余丁、馬乗りの御女房衆六十余騎である。

秀吉は派手な演出をして内外の注目を集めながら、京都を出発した。
秀吉は淀殿、松の丸殿というお気に入りの女性を伴って、およそ合戦には似合わない三十あまりの輿を引き連れていった。

『日本史』
かくて身辺を固めた関白は、大軍を擁して北条殿の攻撃に向かった。
あまねく人々が語るところによると、その兵力は二十万を超えたということであり、軍勢の大部分は陸路をたどり、食糧を積んだ多数の船舶が海路を進んだ。
日本の主だった武将たちはすべてこの戦争に参加した。
というのは、関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり、彼らからは人質を取って常時手元に留めており、時に温情や贈賄によって籠絡するかと思うと、自らに有利と見れば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。

秀吉は陸海から武将たちを小田原に向かわせた。
小田原合戦では、天下人としての秀吉の力を内外に見せつけなければならなかった。

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