三つの史料から見た小田原合戦 家康への警戒

『日本史』
「だが、この北条殿の領国に赴くためには、どうしても北条殿の義父にあたり、五ヶ国の領主である家康と称するもう一人の強大な武将の領地を通過せねばならなかった。
その近くには信長の息子で御本所(信雄)と称される別の領主が控えていた。
この両名は関白に従い、彼の政庁(大坂城か)に常に人質を預け、日本の他のすべての武将たちと同様に自ら一定の時期に関白のもとに伺候して、恭順の意を表していたが、一方で三人の武将(北条氏直、家康、信雄)は常に相互に提携し同盟を結んでいた。
しかし、関白はすこぶる狡猾であったから、家康と信雄から己が身の安全を確保した上でないと、北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。
それがために、彼はこれらの武将たちに対しては日ごろから並々ならぬ愛情を示し、法外な行為を与え、主従というよりは、むしろ同僚に対するように思われた。(中略)さらに、彼はこれらの武将たちに対し、北条殿の諸国を征服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって彼らを自らの支配と命令下に置くことを成就した。
そして、彼らを政庁へ召喚し、戦端を開くに際して安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城(駿府城や清州城などか)を開け渡し、更に用心のため、その守備兵を自分の兵と交替させたいと要請した。
これらの武将は、意思によるものか、あるいはこれ以上拒み続けられなかったためか、城を開け渡したのみならず、自軍の武将連中、及び精兵を率いてこの戦争に参加したのであった」
秀吉は、小田原攻めを行うにあたって、北条氏と同盟関係にある家康、さらにその背後にいる織田信雄を警戒していた。
そこで、秀吉は彼らの城を明け渡させ、そこに自らのへ兵を入れた。
このやり方は、後の関ヶ原合戦で家康が取ったやり方とまったく同じである。

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