三つの史料から見た小田原合戦 『日本史』秀吉、小田原合戦もう一つの野望

しかし、関白は運命にも所業にもきわめて恵まれており、また、非常に慎重で、とりわけ知恵と策略によって取引きする術に長けていたので、これらの諸城は孤立してしまい、中でも、北条殿が家臣たちから取っていた人質の大半がいた幾つかの城は陥落していった。
また、たいていは、関白の贈賄、その他の手慣れた手段と策略に陥ったために、北条殿が主だった武将らと籠っていた主城の兵士らは戦意を喪失し、辟易した。
そして、彼らは北条殿の義父にあたる家康の仲介によって城を明け渡すことを詮議し始めた。
降伏の申し出を受けた関白は、本件を意のままに裁くこととし、北条氏直殿の父、氏政と叔父氏照には切腹を命じ、北条氏直自身に対しては、剃髪して紀伊国にある仏僧たちの広大な里である高野の僧院に追放することにした。(中略)
かくして、関白はこの四ヶ月の間に、従来の勝利の中でも最も名誉あり、期待以上の勝利を収めた。
なぜなら、彼はこれによって日本全土の征服事業に結末をつけたことになり、その絶対君主となるに至ったからである。
ここにおいて、彼はかねがね腹蔵していた計画の実行に直ちに着手した。
それは、家康に対して、彼が都に近く当初所有していた五つの隣国を手放すように命じたことであり、それに代わって、別の同数の国、ならびに北条殿から獲得した諸国のいくつかを与えることにした。
そして、家康からの返答を待つことなく、それらはすべて関白の欲するままに実行された。(後略)

フロイスは小田原合戦の一つの目的が、家康から三河・駿河・遠江らの豊かな領地を奪い、関東に移封させることにあったとする。
「家康からの返答を待つことなく、それらはすべて関白の欲するままに実行された」との表現には鋭いものがある。
秀吉に対して何らの忖度もない発言だけにより信ぴょう性を感じる。

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